持続的成長と成長の限界―必要なのは「成長」ではなく「発展」

2012年12月安倍政権が発足し、アベノミクスの3本の矢のひとつとして「成長戦略」が位置づけられて以来「持続的な成長」あるいは「持続可能な成長」がわが国の大きな政策目標となり、また企業経営においてもこれが経営目標として掲げられることが多くなった。しかし、すでに1970年代に人間活動による負荷が地球の環境収容量の限界を超えるという認識を持って以来、必要なのは、成長ではなく発展であったはずではなかったか。

均衡モデルを提示した「成長の限界」

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ローマクラブ「人類の危機」レポート「成長の限界」が出版されたのは1972年。人口、工業生産の幾何級数的成長は、今後100年のうちに食糧生産、汚染、資源使用の限界に達し、人口と工業生産も制御不能な破局的な減退をもたらす。「成長の限界」が提示したのは、そうした警告だけではない。成長から均衡状態への転換モデルも提供している。「均衡状態」の定義は、人口と資本が一定の状態である。ここでいう「資本」は、サービス、工業、及び農業資本を合わせたものである。具体的には、次のような条件のモデル(筆者の要約)を提示している。

①出生率を死亡率に等しくなるように安定化する。平均的家族構成は子ども二人。

②工業資本の投資率と減耗率が等しくなるように安定化する。

③天然資源の消費と汚染を下げる。

④すべての人々に十分な食料を生産するため資本を食料生産に振り向ける。

⑤農業資本の投下においては土壌の浸食と肥沃度低下を防ぐことを優先する。

⑥工業資本の平均寿命を延ばすため耐久性と修復性を増し、使い捨てを少なくする。

これらの条件の導入が早いほど1人当たりの工業生産、食糧生産は高く、汚染や資源枯渇を防ぐことができる。一方、幾何級数的成長が続くのを許す期間が長ければ長いほど、最終的に安定状態に達しうる可能性が少なくなるとしている。

すでに行き過ぎを指摘した「限界を超えて」

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「成長の限界」でこうしたモデルを提示したドネラ・H・メドウズとデニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダースは、20年後の1992年「限界を超えて」を発表する。副題は「生きるための選択」である。「成長の限界」では100年以内の破局に警鐘を鳴らした彼らは、この1990年時点ですでに「スループット」(一定時間内に処理される物の量)が、原料やエネルギーを提供する「ソース」(供給源)においても、汚染や廃棄物を処理する「シンク」(吸収源)においても、オーバーシュート(行き過ぎ)、つまり限界を超えていると指摘した。ハーマン・デイリーが提示した次のような持続可能な社会の条件の限界を超えていることを指摘し、これを満たすことを求めた。

①再生可能な資源の消費ペースは、その再生のペースを上回ってはいけない。

②再生不能資源の消費ペースは、それに代わる持続可能な再生可能資源が開発されるペースを上回ってはならない。

③汚染の排出量は、環境の吸収能力を上回ってはならない。

「限界を超えて」の「用語に関するノート」では、「成長」と「発展」の違いについても次のように記述している。

辞書の定義によれば、「成長する」とは、物質を吸収し蓄積して規模が増すことを意味し、「発展する」とは、広がる、もしくは何かの潜在的な可能性を実現すること、つまり、より完全で、より大きく、より良い状態をもたらすことを意味する。何かが成長する時には、量的に大きくなり、発展する時には、質的に良くなるか、少なくとも質的に変化する。量的な成長と、質的な改善は、まったく異なる法則に従っている。この地球も長いあいだ成長することなく発展している。したがって、この有限で成長しない地球のサブシステムであるわれわれの経済も、同じような発展パターンを採用するべきである。

この2語以上に明確な区別を必要とする言葉はないと考えている。両者を区別することで、成長に限界はあっても、発展に限界のないことが示されるからである。

また、第8章の「真実を語ること」の節では「必要なのは成長ではなく発展である」としている。この部分は、約10年後の「成長の限界 人類の選択」にも引き継がれている。

誤:成長はすべて善であり、疑うことも、区別することも、調査することも必要ない。

誤:成長はすべて悪である。

正:必要なのは成長ではなく発展である。発展も物質的拡大を要する以上、あくまで公正で、無理のない、持続可能なものでなければならない。

30年後アップデートされた「成長の限界 人類の選択」

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「成長の限界」のコンピュータ・モデル「ワールド3」にその後30年間のデータを投入し、アップデートされた結果が発表されたのが「成長の限界 人類の選択」である。出版されたのは2004年。残念ながら、「成長の限界」の主著者ドネラ・H・メドウズは2001年に逝去している。

コンピュータ・モデル「ワールド3」は「限界を超えて」のときのバージョンアップからさらに改良されるとともに、「生活の豊かさ指数」と「人類のエコロジカル・フットプリント」が追加された。「生活の豊かさ指数(HWI)」は、国連開発計画の人間開発指標(HDI)と同様、寿命、教育、GDPの指標を合計し、3で割ったものと定義されている。「人類のエコロジカル・フットプリント(HEF)」は、マーティス・ワクナゲルらが開発したEFと同様、農業で穀物生産に使われる耕作可能な土地、都市・工業・交通輸送及びインフラのために使われる土地、そして汚染物質を中性化し吸収するための土地の合計である。EFは、1980年ごろに持続可能なレベルを超えていた。「限界を超えて」のオーバーシュートの指摘はやはり正しかったのである。

「成長の限界 人類の選択」は全部で10のシナリオを提示している。20世紀に追求されてきた成長政策が同様に続くと仮定した成長シナリオは21世紀の20~30年ころまでは人口、工業生産は成長を続けるが、再生不可能な資源にアクセスしにくくなることで成長が止まる。資源フローを維持するための投資が加速度的に増え、工業部門の生産は減退し、保健サービスや農業部門への投資が減ることから寿命は短くなり人口も減り始める。生活の豊かさ指数も2030年頃急降下する。

この21世紀における成長の限界は、「再生可能な資源がより豊富にあった場合」、それに加えて「汚染除去技術がある場合」、さらに「土地の収穫率改善の技術がある場合」、「土地浸食軽減技術がある場合」、「資源の効率改善の技術がある場合」を加えたシナリオでも、時期は多少後にずれるにしても21世紀後半には生活の豊かさ水準は減退し始める。これは2002年から人口と工業生産を安定させた場合も同様である。

21世紀後半も高い生活水準を保つためには、2002年から人口と工業生産を安定させ、かつ、汚染、資源、農業に関する技術を加えたシナリオと、1982年から同様の持続可能な社会をつくる政策を導入したと仮定したシナリオの2つだけである。2002年から持続可能な政策を導入したシナリオは80億人近い人々が、高い生活水準を保ち、エコロジカル・フットプリントを減らしながら暮らしていく。その20年前の1982年から持続可能な政策を導入したシナリオは、人口は60億人で安定し、汚染も20年早く、ずっと低いレベルでとどまり、期待寿命も高い水準で保たれる。

これらのシナリオから彼らが指摘するのは、技術や市場だけでは行き過ぎによる崩壊を回避できないこと。できるだけ早く成長を目指す政策から持続可能な政策へ転換することが重要であることである。

今後40年後のグローバル予測「2052

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「成長の限界」から40年後の2012年、ヨルゲン・ランダースは今後40年のグローバル予測という副題のついた「2052」を上梓した。「2052」の予測はコンピュータ・モデル「ワールド3」ではなく、数々の専門家の予測や統計に基づいたダイナミック・スプレッドシートと2つの地球コンピュータ・モデルを限定的に用いて行ったとしている。

ランダースはシステムの変化を伴う5つの主要な問題として「資本主義」「経済成長」「民主主義」「世代間の平等」そして「地球の気候と人間との関係」をあげ、それぞれに関して今のあり方が可能かについても言及しつつ、2052年の世界を予測している。大雑把に言えば、人類は21世紀のうちにオーバーシュートして崩壊する。だがそれは2052年より前ではない。本当の試練は21世紀後半に訪れるとしている。つまり「成長の限界」のシナリオのひとつ、地球温暖化という汚染に適応を迫られるものになるということである。

「成長」に話を戻すと、「2025」には専門家の予測としてハーマン・デイリーが登場する。彼は、「成長の限界」から40年がたった今も、ほぼすべての国が、「経済成長」を第一の目標として掲げていることを嘆きながら、「経済成長はすでに終わっており、現在の成長は不経済な成長だと考えている。生み出される価値よりも生み出すための費用のほうが上回っているため、世界は豊かになるどころか、貧しくなっている。」と述べる。また、「私たちは過去40年で成長の限界に達したが、それを故意に否定した。その結果、大半の人は深刻な害を被ったが、成長というイデオロギーの旗を振る一握りのエリートだけは得をした。なぜなら彼らは、成長がもたらす恩恵を私物化し、それがもたらすさらに大きなコストを社会に押し付けたからだ。」と指摘する。そして、「これから40年間で私たちがついに経済成長の限界を認め、それに適応できることを私は望んでいる。この場合、適応とは、成長経済から定常状態の経済に移行することを意味する。」と希望を語る。

ハーマン・デイリーが移行すべきとする「定常経済」は、「成長の限界」が提示した均衡モデルに近いものだが、「一定のの人口と一定の人工物のストックを、可能な限り低いレベルでのスループットで維持するもの」と定義されている(岩波ブックレット『「定常経済」は可能だ!』)。

『2052』でのヨルゲン・ランダースやハーマン・デイリーの嘆きまじりの予測から、すでに数年が経過した。パリ協定の発効や持続可能な開発目標(SDGs)の動きなど、世界は、少しは持続可能な政策にシフトしているのだろうか。残念ながら、SDGsに「包括的かつ持続可能な成長」は謳われているが、「定常経済」や「均衡モデル」を目指すとは謳われていない。

「成長の限界」の著者たちの4冊の著作を通読し、「成長」と「発展」の違いを改めて考えると、いまどき「持続的な成長」を目標に掲げる企業は「ブラック企業」、国は「ブラック国家」に思えてくる。

「ブラック企業」の場合は、いま評判の映画よろしく「ちょっと今から仕事やめてくる」といったこともできるが、国の場合はなかなかそうもいかない。しかし、ヨルゲン・ランダースは『2052』の「20の個人的アドバイス」の中のひとつとして「決定を下すことのできる国に引越しなさい」と、問題が起きた時に、それに気づき、きちんと対処できる国に住むことを勧めている。

「脱成長」こそ持続可能性獲得のポイント

 「成長」の話をすると、『足るを知る経済』(2000年、毎日新聞社)の著者で循環研の理事も務めていた足利工業大学名誉教授(仏教経済学)の安原和雄氏を思い出す。彼は、「成長は続けられるものではない。人間だって成長を続けたら肥満になってからだを壊すだけだ」と、成長を目指し続ける経済政策の愚かさを肥満にたとえていた。

 米国が肥満で滅亡するかも知れない一方で、飢えに悩む途上国。そして、先進国でも飢えや貧困がなくならず、日本ではむしろ増えているようだ。

こうした格差の大きないびつな社会構造を生み出すのは、大量生産、大量流通、大量廃棄のための生産拡大成長エンジンと、富を持たない人たちから搾取し、持てる人へ集中させる格差拡大成長エンジンだ。この2つの成長エンジンを止めない限り、平和で持続可能な社会は実現しない。

安倍政権は成長戦略のために税の再配分機能を縮小し、GPIFや日銀にも株を買わせて株価を支えている。成長のためなら兵器産業の振興や戦争経済も辞さない。破綻は目に見えている。私たちが目指すべきは、持続的な「成長」ではなく持続的な「発展」である。